Complex
MonaKA(モナカ)です。
今日のテーマは、Complex についての話をしてみたいと思います。
タイトルを、「Complex」 と、あえて英単語で表記したのには、意味があります。
日本語でコンプレックスというと、「劣等感」という意味合いで使われるのが、通常認識ですね。
実際、私自身も、日常会話やコミュニケーション上、普通にそう利用している単語です。
ですが、実際は、「Complex(コンプレックス)」とは、日本の国語辞典において、その意味は、複合的な、と記されています。
グーグル国語辞典には、精神分析用語、複雑な、複合の、込み入った、手間のかかるに加え、日本での「劣等感」の意味合いも記されています。
類語辞典には、「劣等感」の洋語的表現と記されています。
つまり、日本で浸透している意味と、世界で使われている意味は、同じ音でも、同じではないですね。
グローバルな社会に進みつつある昨今では、たとえ単語1つでも、無視できない重要なテーマのひとつになるのではないかと思い、チョイスしてみました。
(コロナ禍の要因で、実際では、国と国の人の行き来は停態していますが、それによってオンライン等の交流環境が、大幅にジャンルを超えて浸透したことで、むしろ、感覚においてはグローバル化は、実質的にはずっと進んでいるのではないかと思います。)
しかし、複合的なもののなかに、劣等感は含まれるわけですから、
Complex = 劣等感 ではないけれど、
Complex ⊃ 劣等感 (⊃ 含む)
ですから、Complex が劣等感を示すという意味も間違いではありません。
元々の感覚の相違によって、ややこしくなりかねませんので
まずは、相違的意味を表記させていただきました
そこで、本題に入りますね
皆さまにとって、「劣等感」とは、自分にとって、直接的に、どのような存在感がありますか?
隠したいもの?
恥ずかしいもの?
情けないもの?
克服したいもの?
見たくない(無いことにする)もの?
考えたこともないもの?
一番最後を選ぶ人は、かなりなツワモノですね
(自分に自信があることと、劣等感がないことととは全くベツモノですので)
実際には、たとえ選ぶ人がいたとしても、本当の意味で、そういう人間は、まず存在しないといっても過言ではないかと、私は思います(人に伝える表現と、自分の中にあり、存在し続けるモノ、、とは、必ずしも一致し続けるということはあり得ませんから)
ちなみに、私自身、最後の表現のような、「私は劣等感を持っていません」と言っている人を、見聞きしたことはありませんけれどね
しかし、少なからず、できれば隠したいものであったり、失くしたい(克服したい)ものであったりすることは、多大に感じたりするものだとも思います。
もれなく、私自身も自分の劣等感については、そうですから。
しかも、一言で、「劣等感」といっても、自分がそう、思っていることが、自分以外でも共通というわけでもないところが、またもう一つ、ややこしい感覚でもありますね。
自分は「劣等感」だと思っていることが、人からは「魅力的」であったり、自分が「魅力的」だと思っていることが、人からは、自分が思っているほどでもない、なんてことは、その人、の人間性だけにとどまらず、大小、どのような場面や、状況だけにおいても、存在する話だと思います。
それは、何故か
つまり、日本語の単語でいえば、
「紙一重」という単語がぴったりなのでは。
と思ったりします。
つまり、表と裏ですね。
少し前に、
「ホンネ」と「タテマエ」という記事をかきましたが、
本当に多くのジャンルで、その、「紙一重」は存在し続けますが、実際の現実事象でいえば、
日中(昼)、と 夜間(夜) を示す代表、「太陽」と「月」がありますよね。
宇宙の惑星そのものを示すと「太陽」 と 「月」 ですが、
私たち人間が、それらに関与するとき、
太陽、または、月灯りによって、自分たちから分かれるものは、
「自分たちの存在そのもの」と、その灯り(光)が映しだす、「影」です。
実際の事象でありますが、光があるときは常に自分とつながって見得ています。影は、光がないときに、確認することができませんが、もちろん、常にそこにあります。表裏一体とはよくいうものですね。
「影」のことを、シャドーといいますが、
心理学の中では、この「シャドー」をComplex として扱うことも少なくありません。
つまり、とても複雑で複合的という意味ですね。
そういう意味で、実際に自分の中にある感覚だけれど、自分が表面上生きてこなかった自分(の感覚)、として捉える考え方もあります。
悩みや劣等感は、辛いものです。
キレイゴトではありません。
誰もの中にあって、
そして、その人にしか分からない苦しみそのものです。
もちろん、私自身にもたくさんあります。
だからこそ、今、ここにいる、わたし
そして、感じ、考え、生きているわたし
その意味を、いつも大事にしたいと思っています
その為には、Complex とは、いつだってそばにあるものだと、
いや、むしろ常に表裏一体って考えれば、そして心から尊重できていれば、
強大で広すぎて、時に「意識」に対してなど、全く寛容ではない「無意識」の世界の自分(自分で在っても、簡単にコントロールなどそもそもできない)が、自分の意識のコントロールなどではない力を、時には、貸してくれるのではないかと、私は思います
(この世の中にもリスペクトするべく、素晴らしい感覚や事象、もちろん、人も多くいらっしゃいます。実際本当に多くいらっしゃいます。しかし、それと、何かの能力とが、必ずしも同義かといえば、必ずしもそうではないのではないか、あくまで、私はベツモノだと思っています。 素晴らしいのは、能力ではなく、やはり、その感覚や事象、その人そのものだと感じます。)
以上です!
今日もありがとうございました。