自分の感情を手のひらに包んだことはありますか?

MonaKA(モナカ)です。

 

 

ちょっとイメージが強めのタイトルにしてみました。

 

 

 

今日のテーマは、

 

 

 

「感情」について

 

 

 

書いてみたいと思います。

 

 

 

誰もが、普通に認知(その存在自体意識)していながら、

 

 

ある意味、その本当の存在については、いちいち深く考えることはない、

 

 

「感情」

 

とは、それくらい、普通に誰もの、今、この瞬間にも、常にそこにあ

 

るもの。ただ、湧き出てくるもの(反応に近いもの)です。

 

 

 

 

 

テレビやCM、ラジオ、または、こうやって他人のブログを見ること

 

があった場合、それらを見ながら、または、その文面を読み進め

 

ながらも、ただ湧き出る思考と、そこから連動されるもの。

 

好意的であったり、否定的であったりから、

 

「いいな」「好きだな」「何かやだな」「それは違う」 などなど。

 

必ずしも、”結論”ではなく、あくまで、その瞬間瞬間に湧き出るものです。

 

 

あ、そういうの、自分もあるけど、多分、誰でも普通にありそうだよなぁって。

 

 

 

そして、

 

 

”感情”とは、

 

 

ただ、湧き出てくる、”直接的存在”でありながら、

 

もちろん、

 

同様に、人の感性において、”客観的存在”でも感じられる

 

 

存在です。

 

 

 

今こうして、そうだよなぁ、って思った瞬間がそうですね。

 

 

私自身も、どちらかというと、子供の頃から感受性が強い方なので チュー汗

 

いつも、自分の主観と客観を、極力、両方行き来するようにしています。照れ

 

 

 

 

”感情”を手のひらに包む

 

 

ためには、その過程はとても大事なポイントとなります。

 

 

 

 

つまり、感情は、ただ湧き出るものであって、

 

 

つかみどころがない、というところを

 

 

ちゃんと自分で受容した上で、

 

 

その瞬間、吟味すべき感情をピックアップして包むんです。

 

 

”包む”と表現したのは、

 

 

例えば、捕まえるとか、捉える、なんていう表現にすると

 

 

その感情がプラスのものであれば、問題ないですが

 

 

マイナスのものであった場合など、

 

まるで警察とかみたいに、

 

尋問を自分が自分にかけるみたいになって

 

しまいかねませんね。

 

 

自分の例なんですけれど、

 

私は、最近、良く知ってる知人からも、その他、信じられる人からも、自分に厳しいところがあると、言われることがあるのですが、

 

 

自分を律することと、責めることは、全くベツモノです。

 

 

私はそう考えているつもりですが、客観的には

 

それでも厳しめにみえるみたいです。

 

 

人の見得る世界なんて、(自分が見ている世界も含め)実際には、どこに正解などあるとも思えず。アテにならないことも多いなぁなんて思います!爆  笑

 

 

確かに、自分の事に関しては、決めたことに対してなど、自分に対して厳しい面もあるけれど、きっちり休むこともしっかりしてるし、人や何とも比べたりもせず、自分の休暇の時間の過ごし方の感覚は大事にしますニコニコ

 

 

これは、私の個人的なイチ例ですが、

 

皆さまも、自分に厳しい方かそうじゃないか、なんていう、

 

漠然とした感覚は判断は難しいのではないかと思います。

 

 

 

例えば、色でいえば、完全なる原色か、無色透明か、

 

なんて、分けられる人の性格や感性が、本当に実在するか、とい

 

えば現実的にありえない、と冷静に考えられますよね。

 

 

 

誰かや何かの基準なんかの判断では、自分を表現なんてできないビックリマーク

 

って思う方の方が、誰もの本音では、大多数だと思います。

 

 

けれど、誰もに感情は存在するのです。

 

もちろん。その人それぞれの感性は、誰に関係なく、

 

もれなく存在するのです。

 

 

こういう時は厳しいけど、こういう時はそうじゃないとか、

 

性格や人格にだけ、無理やり当てはめたりなどせずとも、

 

その場その場での、対応の仕方で、違いがあるのではないかと

 

思います。ニコニコ

 

 

そして、どうして、人それぞれの、その感性や感覚が、どう育って今、そう存在しているのかも。

 

誰かが勝手に憶測で判断することは、難しいことは多大にある。

 

 

”感情”

 

とだけ意味を捉えれば

 

悲しいとか、嬉しいとか、むかつくとか、

 

そういう一般的な人の気持ちだけれども、

 

 

それが、どうして、どのように湧き出てどう変化していくのかは、

 

決して一般化はできない、ということを前提に

 

 

つきあうべき、とても難解で、人間ならではの、人生の”産物”だと

 

私は考えます。

 

けれど、ただ難解なのではなく、

 

 

自分の事も客観的に見つけるようになることが前提であれば

 

 

何かがつながる。

 

 

 

私は、カウンセラーとして、大事にしている感覚です。

 

 

自分自身と向き合い、納得いく答えが出し得ること自体も、

 

そう簡単ではない作業です。

 

それなのに、その作業が、自分とは違う、感覚、環境で生きて過ごされている人(実際、例えば、国内、国外、同じ国内でも、地域が違えば文化も詳細に違ったりします。小さな小さな世界でいえば、同じ会社の部署や、学校の同じクラスのグループであっても。。それでもその人にとっては、とても大きなその人の世界なんです。その人にとっては、その時間、その瞬間が、全てである場合だって普通にあります。)他人であれば、それはその何倍も大変なこと

 

であると考えます。

 

 

自分の事もいつも客観的に向き合えることで、

 

人のことも本当に心から大事に感じられる。

 

 

 

 

その上で、

 

 

今湧き上がった感情は、

 

 

どうして、今、ここにあるんだろう。

 

 

ふと、その感情を、

 

 

捉えるとか、捕まえるというより、

 

 

ふわっと、自分だけの手に包んでみてあげてください。

 

 

誰にいうわけでもない作業ですから照れ

 

 

 

 

そして、自分の中で、その包んだ感情と

 

その感情がそのままそこにいるのかも。

(意識したら、いなくなったりするかもですね爆  笑 

感情なんて、そんなものじゃないですか爆  笑

 

 

けど、その感情に、その瞬間、少し触れようとして気づいた。

 

 

それだけでも、きっと自分には何か大きな改革があるって

 

 

思うんですおねがい

 

 

 

その感情がどんなものであろうと、

 

それを見つめる自分の視点によっては、

 

 

 

飛び立つ場所を待つ小鳥のように

 

 

手のひらを開いても、そこに、

 

自分の感情が”そこにある感覚”を

 

 

感じられそうな気がしませんか照れ

 

 

 

 

 

以上です!

 

 

 

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